Grandfather's Philosophy!
人間は心配事がなくなると哲学的思考に陥る、経験上これは人間の真理かな?と思っていた。
ほとんどの人間は、労働の対価としてお金を得て、コミュニケーションの対価として友人・家族を得て、生命を得た対価として子供を育んでたりする。もちろんそんなに単純な話ではないけれど、多種多様な心配事の9割はこれらに関わっていると思う。
家族から自立して働き、貯金もできて、家族子供もできて、子供も成人して自立して、と、だいたい生きることに不自由がなくなったころに迎えるであろう高齢期。先々の経済状況や社会情勢は一旦置いておくとして、日本の場合はいわゆる年金生活とやらになるわけだけど、観測できる範囲の年金生活しているおじいちゃんやおばあちゃん達はとてもリアリストというか、シンプルな生活をしているように思う。
具体的には、昼間だったら近所の公園でゲートボール、地元公民館で囲碁・将棋、ショッピングセンターで買い物、パチンコなどなど。こういうのを嗜みつつ、そこにはコミュニティがあって楽しそうにしてる。暗くなる前には家に帰ってTVみながら団欒みたいな。
何が言いたいかというと、大抵の心配事から解放されているはずの高齢者たちから、哲学的な探求行動、思想はあまりみられないということ。
すでに一周して悟っているのか、諦めているのか、発信したいけど体力の問題で出来ないのか、老後も心配事は尽きないのか、はっきりとした理由はわからないけれど少なくともインターネットの世界にこもって知識を得たり、何かを発信している人は少ない。そもそも画面が見えないとか、機械が苦手とか、そういう時代の生まれだから、と言ったらそれまでだけれど。
30年後、今のPC・ケータイが身近にあって ネット>TV な世代が老後を迎えたとき、geek達はあたらしい探求行動を始めると思ってる。少なくとも今の高齢者と同じような生活をするとは考えにくい。ベースが違いすぎるし。
もちろんその頃には科学・哲学もネット環境も今より発展しているだろうし、もしかしたら現実世界での役目を果たしたら次はバーチャル世界で第二の人生をはじめることになっているかもしれない。セカンドライフとか既にあるけれど、もっと参入障壁の低い、コミュニティというか、mixiを発展させたような何か。
いろいろ考えてると、アレ?ってなる。
結局、現実の公園や公民館がネットになりかわって(現実→バーチャル空間)、コミュニティは同じまま、大勢は今とやることたいして変わらないのか…と。とはいえ、高齢者のつくる2chまとめサイトとか、アニメblog、Webサービスとかはまちがいなく増えそうで、これはこれで妙な味があっておもしろそうだったり。
でもネットの世界で高齢者の発信が増えると、それはそれでまた旧態依然な現実社会と変わらないというか、ネットの良さが薄れていくような気もするし、なかなか難しいな…。
結論として、冒頭の僕の「人間は心配事がなくなると哲学的思考に陥る」という推論は、人間の内面の推測でもあるので、あとは個々人がそれを表に出すか出さないかの問題で、表に出てきたものでしか比較も検証もできない。僕は自分が特別な存在とは微塵も思っていないから、多分あってるのだろうけどそれを確かめる術はないし、皆それどころじゃない、ということにしておく。
暇人乙。
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